1.イスラエルの歴史に見る救いと滅び
・パウロは偶像礼拝から抜け出すことの出来ないコリント教会の人々に旧約の事例を思い起こすように勧める。エジプトから解放された人びとがみな約束の地に入ったのではなく、大部分は荒野で死んだのだ。
−?コリ10:1-5「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。
・コリントの人々が異教世界に訣別して、キリストに預かるバプテスマを受けたように、イスラエルの人々も異教のエジプトから救われ、導かれ、約束の地に向かった。しかし、大部分の人は約束の地に入れなかった。
−詩篇106:24-27「彼らは愛すべき地を拒み、御言葉を信じなかった。それぞれの天幕でつぶやき、主の御声に聞き従わなかった。主は彼らに対して御手を上げ、荒れ野で彼らを倒された。子孫は諸国の民に倒され、国々の間に散らされることになった。ハムの地で驚くべき御業を、葦の海で恐るべき御業を、成し遂げられた方を忘れた」。
・同じ出来事があなた方にも起こる。バプテスマを受け、主の晩餐に預かっても、信仰から離れた者は滅ぶのだ。
−?コリ10:7-12「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。・・・彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。・・・彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。・・・不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。
・神は見えない。だから人々は見える像を刻もうとする。神の声は聞こえない。だから、人々は占いや霊媒で神の声を聞こうとする。偶像礼拝は常に起こる。そして偶像礼拝は常に罪を伴う。
−出エジプト記32:4-6「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。・・・民は座って飲み食いし、立っては戯れた」。
2.偶像に供えられた肉を食べることの意味
・あなた方は、自分たちは強いから、偶像の神殿に行き、そこで飲み食いしても信仰は揺らがないと言う。しかし、偶像の前で食事をすることはキリストを試みることだ。悪霊は愚かではない。
−民数記25:1-3「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」。
・私たちはキリストの血と肉に預かる食卓につくものだ。悪霊の食卓につくのは止めなさい。
−?コリ10:16-21「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。・・・主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」。
・偶像に供えられた肉を食べることは罪でもなんでもない、食べなさいとパウロは言う。
−?コリ10:25-27「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。・・・あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」。
・しかし誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べるのを止めなさい。
−?コリ10:28-29「もし誰かがあなた方に『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません。私がこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうして私の自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」。
・全ては許されているが、全てが益になるわけではない。人のつまずきとなる行為は止めなさい。他者のために自分の特権を放棄することこそが、キリスト者の自由なのだ。
−?コリ10:23-24「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
3.試練の意味
・神は困難を私たちへの訓練として与えられる。ヘブル書は語る「神はその人が耐えうる試練を与えられる」と。
-ヘブル12:5-7「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
・パウロの生涯は試練の連続だった。しかし主は必ず救いの手を伸べられた。パウロは自らの体験を通じて、「耐えられない試練を神はお与えにならない」とコリントの信徒たちを励ます。信仰の目で見る時、試練こそ祝福の道なのだ。今非常な困難の中にある人は喜べばよい「神はこの困難を私に下さったほどに、私を強くして下さった」と。
-?コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。